創業者 宇野本 信の手記

私の長女が岩国に嫁して居りました。
昭和二十年八月五日の事,長女の舅(しゅうと)が危篤だと言う知らせを受けて,早速その日に見舞いに行きました。
その翌日六日月曜の朝礼に間に合うようにと一番の汽車に乗ろうと駅に出ましたが,数分の差で乗り遅れてしまい,次の汽車に乗りましたが朝礼に間にあわないのなら用件をして帰ろうと思い大竹駅に下車しました。
そこで広島の惨事を知り,夕刻広島に巡り戻ってみますと,打越町の私の工場は,倒壊し その中に、女工員が無残な死を遂げていました。数町先迄逃げのびて死んだらしい老工員に黙祷(もくとう)を捧げている時,助かった工員に会い,娘二人のことを尋ねると、女学生であった三女は行方不明。次女は工場で事務をとっていたが工場倒壊の下敷きとなり,古富さんに救い出されたが唇が切れ,歯が折れ,出血多量でハンカチで押さえて可部の工場に逃げたらしいと言う報でした。

さっそく諸所を尋ねましたが,ものすごい混雑で探すことが出来ませんでした。
翌朝,五時に漸く知人の宅で次女に会いました。
手まねの話によりますと,この朝三時にローソクの光で唇を逢着して貰ったという事でありました。
三女を捜しに市内の焼跡を歩き廻りましたが尋ね見出す事が出来ず,毎日繰り返す内に毒を吸い下痢を始め遂に数日間床に着きました。
その間,娘の夢を見ましたので,また市内に捜しに行きましたが空しく,過ごしている間に,十五日の終戦となりました。
岩国の舅を見舞ったので私は生命拾をしたので,十六日に礼を述べに岩国の娘の家を訪ねました。
舅は7日に逝れた由。
その時,あれ程探した娘が生きてそこにいたのでした。
其の話に依れば,広島一中のグランドの東側の石垣の所で疎開作業開始の指示を受けている時,ピカッと光り,ドンと鳴り渡った瞬間,石垣の下敷きとなりじっと耐えていたが,足元が焼けてきたので友達を助け助けられながら跳ね起きた。
そこで生きていたのは五人だけだったそうです。
グラウンドの真中に水たまりがあったのでハンカチをしめしながら頭に水を掛け火事場の熱さに耐え,火勢がゆるやかになった時,日赤病院に行きました。
彼女は首に少し火傷をし腰骨が曲がったまま岩国の姉の許へ逃避したと言うわけでした。
健康を少し取り戻していたため,可部に連れかえりましたが原爆症状が顕れ,髪は抜け、歯茎がとけ,目耳鼻等から出血し,九月一日遂に就床の身となり身体の著しい衰弱と共に,煩悶(はんもん)し,私に,『一体私はどうしたらいいの?』とたずねるのでした。
この歎声に私の胸は,張り裂けるように苦しかった。
『武子、世界平和の為に犠牲になるんだよ』と悟した。
彼女は静かにうなづき九月八日の夜誰も知らない間に死んでいきました。
広島市内の惨情および可部町では,毎日多数の葬儀が行なわれ進駐軍の乱暴,敗戦の我国はどうなるのだろう。私は如何に生きるべきかと考えている時,大正十四年十一月,私が田村工業株式会社名古屋駐在員として五年間居住中,咢堂会の会員でありました。
会の席上で尾崎咢堂翁に『英雄三代続かず』と語られた。
その事が頭に浮かび上がってきたので、
昭和二十一年二月二日,熱海のへきらく荘(岩波荘の事)の咢堂翁を訪れました。
丁度その時,鳩山一郎さんの秘書の佐藤さんが,宮城県から衆議院に立候補するので翁に一筆お願いしますと言ってこられたので,色紙二枚に次のようにお書きになりました。

なげいても 甲斐なき 今日は世を忘れ   人を忘れて 雲と遊ばん

これは終戦の年,新潟県の妙子山にて,犬の引張る箱スキーをした時の歌ですと申され,続いてもう一首

国と言う くしき魔物の あればこそ    命捨てけれ 千代万の人

と認められ,これが終戦前なら打ち首ですねとお笑いになりました。
昔,藩があった時は,殿の為に命を捨てたものだが,日本国となってからは陛下のために命を惜しまななくなった。
今後お互が人類共通の平和の為に捧げるべきであってアメリカは日本を元の姿にしてこそ世界の一等国としての栄冠があるのです。
人間は感情の動物ですから、争の起る事もあり相手を倒すこともありましょう。
相手が負けてのびて仕舞ったとします。
其の時,ざまをみろと言う様なのは強盗の類であって本来の人間ならば,遂感情に走って悪かったと気付き倒れた相手を抱いて近所の病院に行き看護位して元にかえる様にするのが人類共通の人情であります。
このくらいの事が分からぬアメリカ人ではない筈だが,気付かぬので是非渡米して語りたいと言って居られました。
其の後二十四年御来広になられたその時の歌に、

広島に 病んで拾いし 我命     百歳迄では 国に捧げん

この歌をお読みになる程翁が御元気ならば,是非 ワシントンの桜観に御来米をとお招を受けられ,翌年渡米されました事は,皆様も既知の事でありましょう。
佐藤さんは翁に,立候補を促されました。私もこの時,次の様に申上げました。
昭和二十一年一月二日先生の御声明に,敗戦議員は,立候補すべからずは,誠に結構です。然し選挙民が選挙して,ご当選なさったら心良く,引受けられるのが予より翁が言われている理想選挙ではないでしょうか。
と申上げた処,軽く膝をたたかれ同意されました。
早速私は選挙事務長を紹介していただき帰広致しました。そして,選挙運動に三重県へ出掛けました。
これらが奇縁となりまして,其の後参議員尾崎行輝先生御来広の砌(みぎ)りは御立寄り頂きました。それが新聞に報ぜられました。
尾崎行輝先生は,日本初代のパイロットでありますし,又軟式庭球の開祖でありますところから其の後のエスキーテニス大会には,数度御来広を願いまして, 日本エスキーテニス連盟の名誉会長を御引き受け戴きました。
当時はゴムが統制でありました。翁の主治医の糸川欽也先生が軟庭連の会長であった関係から我が連盟の顧問になって頂き,文部省に折衝方を願い生ゴムの特配の御配慮を頂いた次第です。
呉市長であった水野甚次郎氏や田川大吉朗先生及び高良とみさん等の発起で尾崎咢堂翁を初代総長として国際平和大学の建設に犬馬の労を採れと言う人が広島に現れまして,私は余儀なく足を運びました結果昭和二十二年九月十日拙宅に森戸文部大臣を迎えまして,浜井市長を会長として国際平和大学誘致期成同盟が結ばれたのです。
然し其の後国立綜合大学設立の運びとなりましたので,広島には大学院に匹敵すべき研究所を創設すべきだと提唱されたのが同大学設立委員長であった長崎英造氏です。
これを有志の佐伯好朗先生に図り,中江大部先生の外多数の人の集に依って,其の名称を教育科学文化研究所(略称ESCI)となづけたのです。
ESCI創設期成同盟会と改称しましたが,平和問題はスポーツが重大な役割を演ずるので其のゲームの名称にとどめ経済力復興の暁迄ESCIの必要性を啓蒙運動翼賛の為のユネスコ精神を採り入れた平和ゲームを案出する様,私に委嘱されましたが,私はスポーツに無経験な為県体育課長吉岡隆徳先生の御指導の許に係官御協力を得て研究を致しました。
其結果昭和二十三年八月六日平和祭りに広島児童文化会館前広場においてエスキーテニス誕生大会が開催され,その盛況はものすごく参集の総意は連盟組織の声となりまして,中江大部先生を会長に戴き連盟は発足したのです。
最初から好意を以って居られたのが楠瀬県知事でありました。
昭和二十四年春の大会に尾崎咢堂翁を招請して映画「ヒロシマ」のフィルムに納められたり,引き続き御来広の皇太子殿下の御台覧供せられたり,宮島の紅葉谷公園に於いては知事自ら殿下の御相手なされました。
知事はエスキーテニスは球技の基礎となると申しておられました。
昭和二十四年四月広島県小学校体育指導要項中には五年生以上の教材として採択せられました。
尤も名称はハネツキ(追羽根)といっています。
それは,前文部省体育課長栗本犠彦先生がエスキーと言えば語源の説明を要するが,ハネツキといえば古来のはねつきの進化したものとして,分り安いと言うので斯くなっています。
これの伝達講習会が米子市で開催せられましたので、中国地方の体育指導者の方は御承知の事であります。
二十五年末には県商工部からエスキーゲームに対し発明考案工業化資金が下附せられました。
二十六年は広島に国体が開催せられると言うので,これが協賛スポーツ博が開催せられ,入場賞にエスキーテニス用具百台が計上せられ,ポスターや其他の印刷物によって宣伝せられました。
連盟では場内に於いて指導及び大会を催して,スポーツ博に協賛せられました。
国体に備えて県教委より社会体育指導要項が発刊せられ,其の中にエスキーゲームの詳説せられる等に相呼応して,連盟は小冊子発行して参加国体に 配付する一方,国体協賛エスキーテニス大会を公民館にて開催せられました。
この時森戸広大学長は,連盟総裁就任の挨拶をせられ,大会は実に熱のこもった試合となりました。
国体閉会式に御来広の高松宮殿下には,親しく御台覧の機を与えられまして,其の際殿下はこのテニスは羽根があるので,テンポがゆるやかになるので面白い,この羽根が生命であるから,これをこの様に改良する様御指導賜りました。
仰せ通りにした羽根が現在のもので,選手諸君に喜ばれている次第であります。
森戸学長を中心に,国体協賛大会の反省会を連盟では催されました。
参加者は多数で,この時の熱意ある学長のお話に参加者は希望に輝きて,其後間もなく連盟の連中の努力によって,人事院地方事務所主催のエスキーテニス大会が開催せられる様になり,社会体育の発展を見る様になりました。
昭和二十七年熊本において全国レクリエーション大会がありまして,この時人事院レクリエ―ション課長柳田先生の説明により,北は北海道,南は鹿児島迄普及するに至りました。
尚,この年は広島市の計画を各新聞に発表せられた中に,百米道路三キロ三の其内の緑地帯に,エスキーテニスコート十六面を施設したい,とのことでこれが完遂期成同盟の署名運動が各方面に展開し,其結果名士の発起となり,エスキーテニス育成会が出来る事になりました。
県教育長が連盟は車の前挽きであり,育成会は後押しの様なものだからとて懇篤なる添書きを出して頂きましたので,十月二十八日創立総会を県教育委員会々議室にて開催し創設しました。市当局に於かれては,建設委員会を開催せられ承認を得て頂きました。
それで立太礼奉祝記念コート十面が平和大通りに出来て,奉祝大会も盛大裡に行われ,名も平和コートと名付けられ雨雪のない限り,空なき盛況を呈するに至りました。
この盛況によって、西にもコートが出来て東西二ヵ所となりました。
次はクラブハウス建立方の要望となり,市当局の御好意によりまして,二十九年の春クラブハウスが出来ました。
本年の夏になりますや,昼間はあついから夜でも出来るようにと,ナイト設備要望が新聞に出ました。
これまた御許可を得まして,丁度本年誕生七周年を迎えたので記念大会をこの燈下のもとに,賑々しく開催する事が出来ました。
この盛況を東京朝日新聞社の六浦画伯が見られて,平和祭の模様と一緒にイコちゃんの見学バスで関東,東北に紹介せられました。
これによって詳細の問合せが山積して,肉筆にては問答がしきれず,添付の様な印刷物にして答えました。
こうした事から東京に熱心な方が沢山出来まして,東京エスキーテニス育成会が誕生しました。
これでいよいよ県外進出の緒について,本書を印刷した次第であります。
どうか電信柱のように全国的に手をつないで頂き,本ゲーム平和日本のシンボルとなる迄に育成せられん事を切願いたします。

(昭和30年記・昭和34年没)